Introduction:泡沫の蜃気楼
サンプル
レビュー
水、風鈴、蝉の声、耳鳴り、炭酸、緩慢な振動、ぷちというノイズ。
心臓の鼓動、ミュージックボックスから流れるレコード、学校のチャイム、何の意味もなさないような雑音、そして無音。
この終末百合音声作品は、言語以外の音の重視度が非常に高い。
それは台詞に意味がないという事ではなく、いつもは意識しないようなどうでもい音が、台詞並(以上)に意味を持つことに由来する。
音楽とはまた違い、音声作品というのはどうしてもソーダ…炭酸のようで、いちど聴いたら新鮮さは泡のようにはじけてきえてしまう。
それは、音声作品が言語優位の空間であるからだ。言語というのはコミュニケーションのための手段に過ぎないため、同じ台詞を何度も聴くと心に響かなく(耳に入らなく)なってしまうせいだと、私は考える。
この作品は、それを超越した。
聴くだけしか出来ない音声作品は、ゲームのようにコントローラブルな要素を持たないため、どうしても受け身となってしまう。
それに一抹のせつなさを感じていた聞き手もいたのではないだろうか?
もちろんゲームであれ、そしてこの音声作品で行なった新たな試みであれ、作者が意図したコンテクストに沿うしかない。
しかし本作は、不可能だったはずのコントローラブルな、能動的な要素を音声作品に組み込むことに成功した。
私は水仙サカナという一人の女の子に出会えた人生に心から感謝する。
終わりを望む少女の、助けてという救いを叫ぶ声、絶望の声、祈りの声。
それに最後まで耳をかたむけ続けたあなた。
私たちはもう、彼女の声を聴かなくても彼女と出会うことができる。
彼女の声、サウンドデザイン、描かれる終末世界、どれも巧みで芸術作品の域だ。
これはもはや、新たな時代の聴く美術鑑賞だと言えるだろう。
シナリオはもちろん、声と音。それら全てが合わさって、しかし、それぞれが単一のものとしても成立するような、そんな1つの作品として作り上げられていて凄い作品でした。
終末世界なんていう不穏な雰囲気も感じるこの作品を買うか正直迷いましたし、基本明るく甘いのが好きなので百合としてみるなら大満足という訳ではありませんでした。でも作品として見た時面白い作品だとも思いました。
甘くない訳では無いですが一概にあま、ラブとは言えません。甘いのにどこか儚くて、聞いているうちにその理由がハッキリとして切なくなって…
内容をどう表現すればいのかは難しく、簡単な内容では無かったですが、1度聞いただけで私はサカナという人物が好きだなと感じました。
自分がサカナと同じく優等生タイプだったからか、抱きしめてあげたくなりました。
奥野香耶さんの声が作品の雰囲気にピッタリと合っていてよりグッと引き込まれたんだと思います。凄かった。
少なくとも今まで私が聞いてきた音声作品にはこんな作品は無かった。そう言い切れる新しい作品だと感じた一方で、万人に受け入れられるものでも無いんだろうとも思いました。
でも、これが新たな出会いになるかもしれないし、そうならなくても、こんな作品が表現があるんだと是非とも頭の片隅にでも良いので入れてもらいたいとも思います。
聞いてみる価値は十分にあると思います。合わなかったとしても、寝息音声がたっぷり付いてるんで損はしないですよ。
サウンドの作り方がすごいです。聴き始めたら、突然、水底に引き摺り込まれた。目を閉じる。水面がどん遠のいていく。水泡が肌を掠めていく感覚。そしてその水の中でもいろんな方向に、振り回されていく感覚。イヤホンで音を聴いているだけなのに、それだけでこまでの感覚を引き起こされていきます。
サカナと2人で過ごす時間。この世界にはふたりきりなのに、サカナの息遣いはすぐ近く感じるのに、どこか遠くに感じてしまう。これを声で表現する奥野香耶さん、めちゃくちゃすごい人だと思いました。
作品後半の仕掛けで、思わず泣いてしまいました。作品紹介と実際のトラックリストは大きく違いますが、まずは何も考えず最初から最後まで聴いてみてください。
見つけることが出来て、本当に良かった。
この夏はずっと、サカナのことを考えながら過ごしていくことになりそうです。
終末、という言葉に停滞の風景を覚える。生命が絶えた土地。誰もいなくなった街。全てが滅んだ後の静寂。そういった有様が思い起こされる。
そんな先入観を持っていた私の認識は、この視聴を経て書き換えられた。
終末とは切り捨てられた先のない世界であり、怨嗟の声が響く地獄だ。原始地球の如くに無秩序で荒々しいものだ。終わりゆく世界の悲鳴が、絶えることなく鳴り響く場所だ。
作中で、言葉で事細かに説明されたわけでもない。聞き手側や解釈の差により異なるだろう。ただ、この作品で描かれた終末とはそういうものだと、私はこの作品を聴いて思わされた。
勿論、この作品は音声作品だ。仮に終末というものが未練めいた地獄だとしても、聴き手側はただ聴くことしかできない。
だが、聴き続けることはできるのだ。
この作品について特筆すべきは、表現手法だ。詳細は大きくネタバレとなってしまうため伏せるが、音声作品という枠組みから、一次元昇華させた作品だった。
別媒体において類似作はある。その上で、いまの時代に音声作品でこれをやる意義は確かに存在するのだろう。少なくとも、私の脳は揺らされた。
シナリオ、声、そして音楽。いずれが欠けても成立し得ず、一体となった「音声作品」だった。
これは正しくひとつの終末の話で、音声作品という媒体でなければ成立しない物語だった。だからこそ、物語や音声作品を愛する人には是非、聴いて欲しい。
聴き終えた衝動のま、レビューなのかポエムなのかわからないものを長々と書いたが、つまるところは一言。
素晴らしい作品をありがとう、と製作者一同に伝えたい。これはそういう作品だった。
本作がもたらすのは 「音声作品」という媒体だからこそ成し得る比類なき鑑賞体験である。
一聴して圧倒されるのが、凄絶なまでに精緻なサウンドである。あらゆるセリフを、あるいはセリフの不在を呼び水に浮かび上がる無数の音響細工。帯域の高低を問わず寄せては返し、涼やかな感触を通底させながら安易なチルアウトを許さないその総体としての響きは、ひどく透き通った満杯の水の迫力を思わせる。また、サウンドの波間を漂う奥野香耶さんの声や息遣いも素晴らしく、清涼な水と微熱を帯びた身体の温度が絶えず反転し続けるような本作の絶妙な居心地は、“先生”という光源との関係により折々に色合いを変える、微細な揺らぎを湛えた奥野さんのニュアンス表現なくしては生まれ得なかっただろう。
“認知上の終末”という特異な状況設定を異なる切り口で描出した音楽作品として想起されるのが、The Caretakerによる連作『Everywhere athe End of Time』である。紙幅の都合で同作の詳述は措くが、『Everywhere…』と本作の決定的な違いは、やはり本作が「音声作品」として巧緻なシナリオをもつことに因るだろう。荒廃する記憶の世界を寄る辺なく彷徨い続けなければならない前者に対し、本作は物語を手繰りながら歩を進めることができる。ハッピーエンドの先だとしたら?という問いの先に待ち受ける結末を、確かにこの手で掴むことができるのだ。
音声作品のなかに在る世界は、私たちの認知と共に在る。音声作品のなかに在る世界は、再生という行為と共に生まれ、停止という行為と共に終末を迎える。では、「終末する世界」という世界が私たちの認知上の現実において迎える終末とは?一日後であれ百年後であれ、私たちが本作を聴き始めるまさに今、入れ子の終末が生起する。それでも私たちは、一心に聴き続けることで、予め終末を運命づけられている世界をも生きることができるのだ。
『終末百合』というのでもっと荒廃した世界を想像していましたが、意外と穏やかな世界で驚きました。
終末の理由もよくわからず、それどころか本当に終末が訪れるのかさえも疑わしい、穏やかな世界。
水仙サカナが自ら望んだ終わりの世界だとわかったとき、色々納得すると同時に背筋がゾクッとしました。
現実世界で願いが叶わないのなら、自分の思い通りの夢の世界を終わらせることでハッピーエンドを迎えるというサカナの考えに、少し恐怖を感じたのかもしれません。
でもサカナは救いを求めていました。
最後までしっかり話を聴くことで、サカナを救い出せるという手法は本当に感動しました。
また、本作品は非常に音にこだわりを感じられます。
水の音。
風鈴の音。
ノイズ。
無音。
様々な音が作品に深みを与えていると思います。
水仙サカナを演じている声優の奥野香耶さんは、繊細な心の表現だけでなく、サカナの夢の中という独特の世界観まで完全に表現しきっていたと思います。
シナリオ、ギミック、音楽、そして声と全てが調和した素敵な作品でした。